本と/with book



積ん読という言葉を知っている。
しかし私はこの言葉を知る前から積ん読という行為をずっと営んできた。ずっとだ。

積ん読というと、買うだけ買って結局読まずに置いておく、といったネガティブな意味合いで捉える人も多いだろう。
私はこの積ん読という営為をするときの精神状態とそれからもたらされる行動に興味がある。

積ん読というのは、ただ新品/未読の本が、デスクの周りに積み上がっている状態を指すのではない。
以前インターネット(ソース忘れた)で、「積ん読というのは、その本から思念が飛んで、読んでいないが読んでいる」といったようなことを見たことがある。
私はまさにそうだと思った。

積ん読が成立するためには、まず第一に本を購入せねばならない。
私は電子書籍もたまに購入して有り難がっているが、大抵は紙の本を買う。
とにかくまず、本屋さんで本を買うところから始まる。

時間がないのである程度まとめて購入する。
1冊で買うのは、これは大抵エキナカのような本屋で、買うつもりはなかったが、移動中に読むかもと買う場合である。
こうやった買った場合は、すぐ読むので、積ん読にならない。
そう、積ん読は本屋さんでまとめて購入した場合に成立しやすいのだ。

次のステージは、その買ったものを包装(あるいは紙袋や配送した場合の箱など)から解かない。
開封しない。
こうやって、何を買ったかすらも忘れる。

開封するときが来るのは、手狭になったときだ。
やむなしという形で開封し、新品の本たちを、書架やデスクに一応は寄せる。
寄せるという表現をするのは、スペースがなく、収納とは言えない罪悪感からだ。

ここでまさに本たちが、積まれることになる。
こうして本たちは、私に思念を送り始めることができる。

これを読む人がどう思おうが勝手なのではっきり言っておくが、買った本の積ん読から思念は飛んでいる。
絶対飛んでいる。
私は、この未読の本たちから、何かを受け取っている。

私の積ん読歴は長く、多分中学生の頃からだ。
よく本屋さんに行っていた。
私は地域の公立中学校に通っていたが、勉学に関しては学校のものでは物足りず、いわゆる難関高校の受験問題集を書店で求めて(趣味で)解いていたのだった。
その時に、ろくに最後までやりきらないのに本をとりあえず買って、わかった気に・成長した気になっておくことを覚えた。
この頃以来、この積ん読という習いは、収まることを知らない。

積ん読はわかった気になっているだけ。
そんな風な「正しい」風潮が世間にはある。
そんなわけはないと思う。
積ん読から、実際に私は何かを得ている。
この「本はたくさん自分の近くにあるがまだ読まない」という状況と、「未読の本が周りにない」という状況とでは、まったく違う。まったくだ。

わからない人のためにこれだけ言うと、行動が違うのだと思う。

私のことを読書家と思っている人がたまにいる。
私は読書家ではない。
読書家は、実際に本をたくさん読んでいる人だ。
私はそうではない。
本をたくさん買うが、あまり読まない。

時間ができたら、「積ん読(する)」と直訳できる外国語を探すための調査や旅をしたい。
きっとどこかの言語で、積ん読に対応する単語一語があるはずなのだと信じて。